satoyamahanako’s blog

里山で炭を焼いて暮らしています。

移住なんてしたくなかった その1

うちは夫婦2人とも化学物質過敏症で、どうにもこうにも都会暮らしがままならなくなった。
約20年前のことだ。
仕事を辞めなきゃいけなくなるくらい体調が悪くなってしまったのだ。

 

2人とも生まれも育ちも都会、県をまたいだ引っ越しも何度かしたけれど全て都市部、最後は東京に住んでいた。
田舎は人間関係が面倒くさそうだし同調圧力も強そうだから絶対に住みたくないと2人ともはっきり思っていた。
それなのに田舎に住まなきゃいけないのか、なんなんだこの体は。
自分たちの思いに逆らうこの肉体よ。

 

仕方ない腹をくくろう、生きて行かなくてはいけないのだと思えるようになるまでどのくらいかかったか忘れてしまったけど、1か月2か月じゃないな、もっと長かった。
とにかく腹を決め、1年半くらいあっち行きこっち行きして、移住先を探した。
化学物質過敏症だと就ける職業もすごく限られる。
洗剤や柔軟剤の匂いで不調になるため、会社勤めは無理だし、自営であってもサービス業は無理。
自営で、かつ夫婦2人だけでできる仕事が望ましい。
そうなると、第一次産業か。

 

漁業は東京時代に説明会に行ってみたことがあって、うちらには無理だと早々と結論を出していたので、最初っから候補になかった。
どうも演歌的なノリがあって合わないなと感じたのと、自営でやりたいならまず自分で船を購入するところからスタートという説明に怖気づいたのだ。
ウン百万円の先行投資をして採算取れるようになるのか私たちは?不漁でも燃料代だけはバッチリ出て行くのに。

 

そういうわけで主に農家さん巡りをしていた。
でも農業の先行投資額も半端ない。借金スタートだ。
化学物質からのダメージから完全に回復していない私たちに借金抱える気力は全然なかった。
自分の体に不安があるときに、よーしバリバリ働いて借金返すぞーとは思えない。
おまけに2年間の研修期間が必要である。
お給料をもらえない可能性が高い。
さらに基本的に1年に1度しか作付けできないので、熟練するまでものすごく時間がかかる。
中年の我々が就農したとして、食べて行けるだけの品質と量を収穫できるようになったときは老年になっているのではないか?
いやそもそも1年に1度しか経験できないのに、食べていけるだけの技術を習得できるのか?