satoyamahanako’s blog

里山で炭を焼いて暮らしています。

狭い世界と広い世界

山に囲まれた村で暮らし、月に数回のホームセンターでの買い出し以外にはほとんど村から出ることはない。近所の高齢者と半径2~3メートルの話題(噂話とも言う)について言葉を交わすこともあるけれど、基本的には夫以外の人とはあんまり話さない。日々黙々と炭の仕事をしているだけなので人と会わないのだ。もともと一人でいることが苦にならない性格ではある。

狭い世界での閉ざされた生活なんだけど、不思議なことに都会で暮らしていたときより、広い世界と繋がっているような感覚がある。

お客さんが日本各地にいるからかな、炭切をしている最中にはお客さんのことを考えるから、頭の中で日本各地を巡っているからかもしれない、と考える。

炭っていうのは、食べ物とか環境とか自然とかインテリアとか林業とか人と人のつながりとか、いろんな分野に関わっているから、思考が広がりやすいからかもしれない、とも考える。話はそれるけど、誰かとともに炭を囲む時間っていうのは良いものだ。ゆったりした贅沢な気分を味わえる。

都会で暮らしているときは、世界というか社会、わたしの外部にあるものと繋がっている感覚って持てていなかったなと思い出す。
村ではわたしは親戚もいない余所者で部外者で、婦人会とかサークルとかにも参加していないから、孤立した感じを持ってもおかしくないような気がする。でも持ったことはない。なにかと繋がっている感じはする。
他県から村にお嫁に来て60余年という人に「60年たっても余所者は余所者よね。いつまでたっても地元の人の仲間には完全にはなれない。そんなふうに感じたことない?」と聞かれたことがあって、「仲間になろうと最初っから思ってなかったから」と答えた。好かれなくてもいい、嫌がられないようにしよう、を目標にしていたのだ。会社勤めの経験から、嫌がられなければ仕事上困ることはないだろうと判断して、低めの目標設定にした。わたしは人嫌いではないけれど、人好きでもないのだ。

「なにかと繋がっている感じ」のなにかは人ではないんだな、きっと。
大地とか木々とか水とか大気とかそういうものだ、わたしが繋がっているのは。
ハコミセラピーのセッションを体験したときに湧いてきたイメージがそういうものだった。わたしは山の火口から入り込んでマグマの中と通り抜け、土になり、植物になり、やがて雨になって川に降り注ぎ、そのまま海まで流れて行った。
この感覚は村の生活というより炭の仕事がもたらしてくれているものだという気がする。