satoyamahanako’s blog

里山で炭を焼いて暮らしています。

天畠大輔議員の質問を聞いて

昨日の続きを書こうという心づもりだったのですが、今日の国会中継を聞いていて、あまりにも感動してしまったので、そちらのことを書きます。

炭窯で仕事をしているとき、耳寂しいのでラジオをずっとつけています。NHK第一です。NHK第一以外はあんまりきれいに音が入らないのです。スマホも繋がらないし。
国会中継を聞きたいわけではないですが、他に選択肢がないので、よし面白いこと見つけるぞという心構えで聞いています。

わたしが感動したのは、れいわ新選組の天畠大輔議員の質問を聞いているときでした。国会中継を聞いて感動するなんてことあるんだとびっくりしました。

天畠議員は幼いころの医療ミスが原因で重度の障害者となり、発話ができません。そのため、通訳と代読者(と介助者)の助けを借りて質問をします。
たとえば、天畠さんが「てんばた」と言いたいとします。通訳が天畠さんの手を握って「あ、か、さ、た」と読み上げていくと、天畠さんは「た」行で通訳の手を引っ張ります。通訳が「た行でいいですね」と確認し、次に「た、ち、つ、て」と読み上げていき、「て」が読み上げられたときに、天畠さんが通訳の手を引っ張る。「て、ですね」と確認し、また「あ、か、さ、た」と読み上げる。それをずっと繰り返して単語と文章を作っていくのです。それを代読者が書き留めておいて代読します。

質問はあらかじめ用意してあったものを代読者が読み上げていましたが、首相や大臣の答弁に対して、天畠さんが返答したい場合もある。そのときは、しんと静まり返った議場に通訳の「あ、か、さ、た」という早口の声だけが響いていました。
その静けさです。
普段の議場ですと、こんなにも全員が静かに息をひそめて誰かの発言を待つということはまずないわけです。一人の議員の発言にこれだけ集中していることってないんじゃないかなと思う。いつもだったら反論してやろうとあれこれ考えていたり、隣の人とひそひそ話していたり、審議終了後の予定を確認していたりしているんじゃないかなあ。ラジオ聞いているだけで映像で確認したわけでもない人間が何をいい加減なこと書いているんだと思わなくもないけど、でもそういう散漫な雰囲気を感じるんですよ。
それがなかったんです。まずそのことに心打たれました。雄弁に流暢に演説することができる人ばかりが集まった場所で、言葉を紡ぐこと自体に必死にならざるをえない人がいる。その必死さは神聖なものだから、邪魔してはいけない。

また首相や大臣の答弁の言葉に血が通っていました。とても短い答弁でしたが、実がありました。たいていは言質を取られぬよう整えられた文章を朗読するだけなのに、天畠さんとは人間対人間の対話になっていて驚きました。

天畠さんの質問は物価高対策とか障がい者関係の法案についてだったけど、それぞれに切実さがありました。
他の議員も物価高対策については述べていました。声高に述べる人、切々と訴える人、いろいろでしたけど、彼らが、物価高で困窮している人々がいると言ったときに、その「人々」は群像として聞こえてくる。天畠さんの場合は、一人ひとりの顔や暮らしぶりが立ち上がってくるようでした。
不思議なのは、わたしは通訳と代読者の声を聞いているだけなのです。天畠さんは、ラジオを聞いているだけでは存在しないも同じと言ってもいいのです。でも確実になにかが伝わってくる。なぜこんなにも強く伝わってくるのだろう。

人間の尊厳、そんな言葉が頭に浮かんできました。あなたも、あなたも、あなたも、そしてわたしも、男であれ女であれそれ以外であれ、子供であれ大人であれ、とにかくどんな人間であれ、一人の人間として尊重されるべき存在なんだ、軽んじられて良い命なんてない、お互い尊重しあって生きる、そんな世の中であってほしい、そのために声をあげるんだと言われているような気がしました。
わたしはどこか諦めているから。
理想としては一人の人間として尊重されたいと思っているけれども、ま、実現不可能でしょう、と。この場を丸く収めるために言いたいことは肚に納めておきましょう、と。女だし余所者だし若輩者だし・・・
でもそんなわたしの選択が自分自身を窮屈にしているのも事実なんです。

だんだん議場が神々しく感じられてきました。
武田泰淳の「ひかりごけ」を思い出しました。最後の裁判の場面です。よく意味がわからないなあと読み進めた小説の最後の数ページ、紙面が発光したのでした。意味はわからないけど、なにかすごいものがここにはあるという光です。その光を思い出しました。

わたしは窮屈さを感じながら暮らしている。
で、このまま窮屈さを抱えてずっと生きていくつもり?
それは嫌だ。
じゃあどうするの?