satoyamahanako’s blog

里山で炭を焼いて暮らしています。

マキは万年、カヤ限りなし

たとえば、「マキは万年、カヤ限りなし」(マキもカヤもすごく長持ちするという意味。弥生時代のカヤで作られた棺が発掘されたと本で読んだことがある。それくらい長持ちするらしい。古い家では土台や敷居に使われている)とか、栗の木は腐りにくいから柱にするとよいとか、松は粘るから梁に使うとよいとか、特に教えられたわけではないけれども、雑談の中で何度も語られたから、わたしでも知っている。
でもこういう知識は実際のところ、今ではほとんど役に立たない。
自分の山にカヤもマキも栗も松もあったとしても、それを伐って製材して家を建てていたら莫大な金がかかってしまう。(昔の人は、三代後の世代が家を普請しなおすときのために、カヤやマキや栗、松、杉などを植えておいたものらしい)
売っている材を使ったほうがはるかに安上がりだ。
そもそも村に製材所がなくなってしまった。
(製材所がなくなって、仕事が不便になったと大工さんが言っておられました)
 
近所のおばあさんの散歩にくっついて山を歩いたとき、5歩ごとに「これは胃の薬になる」「これは春先に食べる」「これは×××」「これは〇〇〇」・・・、大げさではない、ほんとに5歩ごとにいろんなことを教えてくれた。
そして「これは薬になるけど、今はもっと効く薬があるから」「食べられるけど、今は食べるものがたくさんあるから、わざわざは食べない」などと言葉をつけ加えた。
さいころから年寄のすることを見聞きして身につけた膨大な知識が役に立たなくなっている。
わたしも教えられたはいいものの、実生活でそうそう必要とする知識ではないので大半を忘れた。一度聞いただけでは覚えられるものではないのだ。
役に立たなくなったのは、ある意味良いことではある。おばあさんの若いころから比べると治る病気が格段に増えたし、村の人の食生活も豊かになったということだから。ほかのおばあさんがこう言っていた。わたしのおばあさんが食べていたものを思い出すと、わたしはなんて贅沢してるんだろうって思う、毎食何品もあるし、毎日違うものを食べてるし。
でもその変化はおばあさんに「わたしの人生はナタとナベしか持たない、つまならない人生だった」と言わせてしまうほど、山で暮らす人の知識や知恵や経験や技術の価値を大幅に減少させてしまった。
おばあさんの鎌はいつもキリリと研ぎあげられているけれど、今どき鎌を使う人も減った。
そのことはとても悲しい。