satoyamahanako’s blog

里山で炭を焼いて暮らしています。

「明日に架ける橋」いろいろ

「明日に架ける橋」の歌詞の意味を知ったのは大学生のときだ。
同級生の送別会の2次会でカラオケに行った。「もうこれで最後の歌にしよう」と先輩が言い、主役の同級生に「何の歌がいい?」と尋ねたのだ。
「じゃあ、「明日に架ける橋」で」と同級生が答えた。友人とか恋人とか家族とか、大切な人が大きな困難にあるとき、自分の全てを投げ出してもその人を助ける、これはそういう歌です。僕はそういう人間になりたいんです。

とんでもない困難にある人を助けることなんてできないのに、とその当時のわたしは冷めて考えていた。闇の底に沈んでしまって、自力で上がる元気も勇気もなくしてしまった人を、他人が引っ張り上げることなんてできないんだから。どうせ途中で抱えきれなくなって手を放しちゃうんだから。
そんなふうにねじくれて考えてしまっていたのは、まあ、わたしの育ちのせいだ。
人は人を助けおおせるものではないけれど、それはそれ、人を助けられる人間になりたいと素直に表現できる人は素晴らしいと今は思う。サイモンとガーファンクルも同級生も。

でも、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」は聴かない。昔から聴かない。
どうしてかというと、若くてナイーブな青年が神様に向かって、「僕は大切な人が困難にあるとき我が身を投げ出してその人を助けられる人間になりたいんです」と訴えているように聞こえてしまうからだ。いや、わたし今とっても大変だから。現実的な解決が必要なんだよ。あなたたちの気持ちはありがたいけれど、お気持ちだけいただくね。そういう気持ちになる。
彼らの歌はとても美しいのだけども。

後年、ジョニー・キャッシュフィオナ・アップルがカバーした「明日に架ける橋」を聴いた。
彼らのカバーは、君を助けることに主眼がない。君の困難、辛さ、孤独、みじめさ、それはよく分かるよ、自分たちもそれをよく知っている、と歌うのだ。あれはまったく深くて暗くて冷たい闇だ、と。
わたしにとって一番現実的に響く歌唱だ。この困難を、辛さを、深く理解してくれている人がいる、そのことがどれほどの励みや助けとなることか。
だから疲れ果てたとき、彼らのカバーを繰り返し聴く。