satoyamahanako’s blog

里山で炭を焼いて暮らしています。

職人と商売

6次産業化という言葉が広まり始めたころ、当時の民主党の政治家の方が、「6次産業化によって農家の増収を図る」と熱弁をふるっておられたのを覚えています。
農産物のままなら単価は安いけれど、加工品にして消費者に直売すれば高く売ることができるので増収が見込める、乱暴な説明をすればそういうことです。
そりゃそうかもしれない。
 
わたしたちも自分たちでお客様に直接販売しています。「儲かってるでしょう―」と周りから言われることもあります(あれはたぶん、誉め言葉のつもりなんだろうな)。
確かに地元の炭問屋に卸すより売り上げは上がります。
でもね、炭の生産の知識・技術と、流通販売の知識・技術と、全然別物でしょう。
わたしたちは炭生産のプロであって、流通販売の分野では完全な素人です。
プロとして生産活動を続けつつ、他の分野でもプロを目指す。
大変です。
いま、思わずプロって書いちゃいましたが、「木伐り1年、窯づくり3年、炭焼き一生」だったかな?そういう言葉があるくらいですから、炭焼きでも半人前なわけです。
半人前が何とか良い炭を焼きたいと日々もがいているのです。炭の仕事だけでも夜すぐ眠くなっちゃうのになー。
 
6次産業化を否定しているわけではありません。
6次産業化に取り組む生産者が増えたことで、魅力的な商品が増えていること、生産者と直接やりとりできる機会が増え、お買い物の楽しみが増していることは、消費者として、わたしも実感しています。
生産者としても、お客様と直接やりとりできることは、やりがいも感じるし、もっと取り組んでいきたいという気持ちはあります。
 
でもねー、本業をまっとうすることが増収につながる、という道もあってしかるべきだと思うんです。
本業をまっとうするだけでは満足な収入が得られない、だから6次産業化、というのはなにかおかしいのではないか、と。
 
今は少し改善されましたが、わたしたちが炭焼きになったころ、地元の炭問屋への卸値には人件費がまったく含まれていませんでした。
農業もそうなので、昔からある産業の生産物には人件費が含まれない卸値がつけられるのでしょうかね。
炭を運ぶ運送屋さんの値段にも、炭を販売する販売店さんの店頭価格にも人件費は含まれているはずなのですが、そのスタート地点である炭生産者の売値には人件費が含まれない。
だから収入が少ない。
収入を上げるためには、生産量を増やすしかなく、そうすると休みもなく働いてばかり、ということになります。そこまで働いたからといって目覚ましい収入が得られるわけでもない、それを楽しめる人はいいですが、楽しめない人のほうが多いので、後継者が少ないのだろうと思っています。

諦めてもらうための10年

ブログを書くようになって、来し方に思いを巡らせることが多くなった。
そしてこの15年は、村の人や炭焼きの人たちに認めてもらうための15年だったなと思いいたった。
村の人に対しては、(あんまり付き合いはよくないかもしれないけれど)元気に挨拶する、共同作業にも必ず参加する、村の風習は尊重する、男とか女とか年齢とかで役割が明確に分かれているのは趣味に合わないけれど、郷に入れば郷に従え、わたしはおとなしくしてます、とやってきた。実際言いたいことも夫以外に言わずにいたら、ここにきていい加減苦しくなってきたのは前にも書いた通り。
村の選挙で、選挙事務所の役目を仰せつかったくらいだから、それなりに認めてはもらえてるんじゃないだろうか。
炭の仕事に関しては、一日も早く周囲に一人前と認めてもらえるよう頑張って働いた。周囲の方々の協力も得られるようになって、イベントを成功させたり、新人さん研修のための補助金制度導入を実現させたり、達成できた目標はいくつかある。

それなりの達成があって、ここらで方向転換したほうがいいんじゃないかと思い始めた。これまでの「認めてもらおう路線」を続けても楽しい未来はやってこないなと思ったのだ。ある程度は周囲に認められた、つまり土台はなんとか作り上げることができたのだから、ちょっとここらで飛び跳ねてみたいなあ。

先日、村外の人とわたしの炭切マニアぶりについて話していたら、「それはもう変態ですね」と言われて、新鮮な驚きを感じた。
「変態ですか?わたしとしては仕事としてお客様に提供する以上、当然のことをしていると思っているのですが、分かってくれる人が周りに1人もいないんです」
「変態の仕事だからですよ。変態は全人口の1割もいないんです。世の中変態ばっかりだとめちゃくちゃになっちゃいますからね。9割の普通の人が世の中を回してくれているんです」
そうだったのか・・・自分を基準に考えると、炭切を大切にしない周囲の炭焼きのほうがプロとしてどうよ的感じなのだが、どうかしているのはわたしのほうだったか・・・いや確かに、売値に合わない手のかけっぷりではある。うちの時給はむちゃくちゃ安い。時給に見合うように働くのが資本主義社会の生き方かもしれぬ。
しかしだよ。それで面白いのか?
そんなことしてたらせっかくの仕事がただの作業になっちゃうでしょう。ただ手を動かしているだけで、なんの創造性もないでしょ。お客さんのこととか燃え方とか想像しながら最善手を探って炭を切るのが楽しいんだから。

話しているうちに分かったことだが、わたしを変態だと言うその人もどうやら変態で、その人の連れもまた変態なのだった。同類のせいか、わたしの仕事を面白がり評価してくれる。
こういう人たちとの会話にわたしはとてもとても飢えていた。

決めたのだ。
これからの10年は周囲の人に諦めてもらう10年にする。
だってわたしは全人口の1割側の人間なのだ。変態なんだから仕方ない、と諦めてもらうことにする。
わたしは変態として開き直り、全力疾走する。今まで普通の人であろうとしてたから、周囲の目を気にして思う存分突っ走ることができなかったのだ。
もうこれからは走るよ。
すごく楽しみ。

ラジオの不思議

おとといのブログに書いたことですが、国会中継で天畠議員の質問を聞きながら、わたしは今、天鼻議員のなにに触れているんだろうかと考えたものです。魂っていえばいいのかなあ?ソウル?スピリット?
ご自身で発話できないわけですから、ラジオでは天畠議員の存在を確認できないのです。それなのに議員の熱情というのでしょうか、切れば血が滴るような言葉が胸に響いてくる。
でももしテレビで見ていたら感動しなかったんじゃないかと思うのです。へー、こういう議員さんがいるんだ、で終わっていたような気がします。
ラジオだったから、感じることができた。そういう不思議がラジオにはあると思っているのです。

NHKラジオで時々、「今日は一日〇〇三昧」という特集番組が放送されます。10時間くらいですかね、あるアーティストだったりアニソンだったり、ひとつのテーマに沿った音楽を流す番組です。
10年以上前のこと、「今日は一日忌野清志郎三昧」が放送されました。RC時代からの清志郎ファンのアナウンサーが司会を務め、リスナーからのメッセージやリクエストと、トータス松本とか矢野顕子とか、著名人のエピソードトークとリクエストで構成された番組でした。
その日は窯くべ(原木を炭窯に運び入れる作業)だったので、2人でラジオを聞きながら作業をしていました。わたしたちにも清志郎の曲には思い出があるし、好きな曲もたくさんあります。時に一緒に歌いながら、時にリスナーのメッセージに共感しながら聞いていました。
夕方に仕事が終わって帰宅して入浴、食事、後片づけ、洗濯・・ずっとBGMでラジオをつけていました。家では静けさを好む夫が珍しく、ずっと聞いていたいと言ったからです。電気を消して布団に入ってからも聞き続けていました。

あと30分ほどで番組が終わってしまう、というころでしょうか、息をひそめて番組の終了を聞き届けようとしている大勢の人たちの気配を感じました。広い会館などで大勢の人が集まって同じ気持ちを味わっているときの、あの感じ、あれがわたしたちの周囲にあるのです。わたしたちと同じように、この番組をもっと聞き続けていたい、でも終わっちゃうんだという気持ちでいっぱいの人たちが、残り僅かな時間を味わいつくそうとして息を殺して聞いているのです。
「すごいね」と夫に言ってみました。
「うん、すごい」
「いっぱい人がいるね」
「うん、いっぱいいる」
夫も同じことを感じていたのです。
そのころのわたしたちの家は田んぼの端にポツンと一軒だけありました。ですから家の周囲の人の気配ではないのです。
日本全国でこの番組に聞き入っている人たちが同じ気持ちで連帯しているんだと思いました。
さすが清志郎とも思いました。

ラジオの特別な力を感じた一夜でした。

ノマドランド その2 あるいはスローターハウス5

車上生活を始めると同時に、WOOFで農家さん巡りを開始しました。本当はもっと体調が回復するまでおとなしくしているつもりでしたが、そうも言ってられません。次なるステージへ向けて準備を始めることにしたのです。

まず3万円で中古のRV車を知り合いから買いました。それからタープとかキャンプ用の椅子やテーブルも。夫がハードに山登りをしていたので、キャンプ用品は一通り揃っていましたが、ハードな山登り用の装備は今一つ快適性に欠けます。状況としては明るい気分になりようがない、だったら道具類で少しでも明るく楽しい気分を作りましょうということで、タープ類のほかにもなにかあれこれ購入したような気がします。
車中泊、キャンプ、農家さん滞在を組み合わせて、1年半、北海道から九州を2~3往復したんじゃなかったかな?それで最終的に炭焼きになったのです。

WOOF先の農家さんは100%わたしたちの状況を理解してくれて、励ましやアドバイスもくれました。自分たちでも混乱している最中で、夢とか希望とかそんな明るい展望は持ちようがなく、空元気を頼りになんとか前を向いているときでしたから、農家さんたちの理解と応援は、本当に嬉しくありがたかったです。
わたしたちが滞在した農家さんたちのほとんどが新規就農した方々で、会社員をやっていたけど農家になりましたというように、彼ら自身も一度自分たちの人生をリセットした経験があります。自分たちの経験とわたしたちの状況を重ね合わせて、「僕たちもここに落ち着くまで紆余曲折あった。良い落ち着き先が見つかるといいね」と言ってくれました。
また有機農家さんだったので、化学物質過敏症への理解も深く、わたしたちが東京を離れざるを得なかった理由も車上生活を始めざるを得なかった理由もすぐ理解してくれました。

一方、友人知人たちからは、「は?何してんの?」的反応が多かったです。大学を出てそのまま有名どころに就職して家庭を持って子供が生まれて・・・と寄り道なしの「王道」人生を送っている人たちに対して、うちは2人とも仕事を辞めては長期旅行に行ったりしていたので、「また何か始めた」という気持ちが湧いてしまっていたのかもしれません。
それに私たち自身、どういう顔してどんなことを言えばいいのかよくわからなくて、ヘラヘラしてしまっていたのです。

わたしたちはやりたくて始めたわけではないし、自分たち自身にもこんなことしちゃってさ、という落ちこぼれの気持ちは当然あるわけです。まっとうな生活を送りたいのにこんなことになってしまいましてね、という気持ちが。住所不定無職って嫌な響きだなあと思ったものです。
化学物質過敏症という、どう対処していいのかもよく分からない疾患を受け入れられない気持ちもある。
まだ30代でエネルギーに満ちている年代で、他の人は仕事に趣味に活発に活動しているのに、自分たちもそうしたいのに思うように体が動かないもどかしさ悲しさ。普通の生活を送りたい、送れそうなのに送れない、どうしたらいいんだろうという困惑、不安。
いろんな感情がもつれ合っていました。

それでヘラヘラしちゃってたんです。
まだ化学物質過敏症が今ほど世間的に認知もされていませんでしたから、そこの説明も難しかったし、自分たちも状況をうまく把握できずに混乱しています。うまく言葉を繋げることができなかった。
ヘラヘラしてると、いい加減な奴らに見えちゃうんですね、そうすると、「は?何やってんの?」ってことになります。見当はずれな解釈をされてしまう。

でも。
大きな声で言いたい。
シリアス過ぎてヘラヘラせざるを得ないときってあるんです。
スローターハウス5」を読んでくれ。
今ならそう言えるけど、当時は言えなかったです。ヘラヘラしてるだけ。辛かったです。

 

天畠大輔議員の質問を聞いて

昨日の続きを書こうという心づもりだったのですが、今日の国会中継を聞いていて、あまりにも感動してしまったので、そちらのことを書きます。

炭窯で仕事をしているとき、耳寂しいのでラジオをずっとつけています。NHK第一です。NHK第一以外はあんまりきれいに音が入らないのです。スマホも繋がらないし。
国会中継を聞きたいわけではないですが、他に選択肢がないので、よし面白いこと見つけるぞという心構えで聞いています。

わたしが感動したのは、れいわ新選組の天畠大輔議員の質問を聞いているときでした。国会中継を聞いて感動するなんてことあるんだとびっくりしました。

天畠議員は幼いころの医療ミスが原因で重度の障害者となり、発話ができません。そのため、通訳と代読者(と介助者)の助けを借りて質問をします。
たとえば、天畠さんが「てんばた」と言いたいとします。通訳が天畠さんの手を握って「あ、か、さ、た」と読み上げていくと、天畠さんは「た」行で通訳の手を引っ張ります。通訳が「た行でいいですね」と確認し、次に「た、ち、つ、て」と読み上げていき、「て」が読み上げられたときに、天畠さんが通訳の手を引っ張る。「て、ですね」と確認し、また「あ、か、さ、た」と読み上げる。それをずっと繰り返して単語と文章を作っていくのです。それを代読者が書き留めておいて代読します。

質問はあらかじめ用意してあったものを代読者が読み上げていましたが、首相や大臣の答弁に対して、天畠さんが返答したい場合もある。そのときは、しんと静まり返った議場に通訳の「あ、か、さ、た」という早口の声だけが響いていました。
その静けさです。
普段の議場ですと、こんなにも全員が静かに息をひそめて誰かの発言を待つということはまずないわけです。一人の議員の発言にこれだけ集中していることってないんじゃないかなと思う。いつもだったら反論してやろうとあれこれ考えていたり、隣の人とひそひそ話していたり、審議終了後の予定を確認していたりしているんじゃないかなあ。ラジオ聞いているだけで映像で確認したわけでもない人間が何をいい加減なこと書いているんだと思わなくもないけど、でもそういう散漫な雰囲気を感じるんですよ。
それがなかったんです。まずそのことに心打たれました。雄弁に流暢に演説することができる人ばかりが集まった場所で、言葉を紡ぐこと自体に必死にならざるをえない人がいる。その必死さは神聖なものだから、邪魔してはいけない。

また首相や大臣の答弁の言葉に血が通っていました。とても短い答弁でしたが、実がありました。たいていは言質を取られぬよう整えられた文章を朗読するだけなのに、天畠さんとは人間対人間の対話になっていて驚きました。

天畠さんの質問は物価高対策とか障がい者関係の法案についてだったけど、それぞれに切実さがありました。
他の議員も物価高対策については述べていました。声高に述べる人、切々と訴える人、いろいろでしたけど、彼らが、物価高で困窮している人々がいると言ったときに、その「人々」は群像として聞こえてくる。天畠さんの場合は、一人ひとりの顔や暮らしぶりが立ち上がってくるようでした。
不思議なのは、わたしは通訳と代読者の声を聞いているだけなのです。天畠さんは、ラジオを聞いているだけでは存在しないも同じと言ってもいいのです。でも確実になにかが伝わってくる。なぜこんなにも強く伝わってくるのだろう。

人間の尊厳、そんな言葉が頭に浮かんできました。あなたも、あなたも、あなたも、そしてわたしも、男であれ女であれそれ以外であれ、子供であれ大人であれ、とにかくどんな人間であれ、一人の人間として尊重されるべき存在なんだ、軽んじられて良い命なんてない、お互い尊重しあって生きる、そんな世の中であってほしい、そのために声をあげるんだと言われているような気がしました。
わたしはどこか諦めているから。
理想としては一人の人間として尊重されたいと思っているけれども、ま、実現不可能でしょう、と。この場を丸く収めるために言いたいことは肚に納めておきましょう、と。女だし余所者だし若輩者だし・・・
でもそんなわたしの選択が自分自身を窮屈にしているのも事実なんです。

だんだん議場が神々しく感じられてきました。
武田泰淳の「ひかりごけ」を思い出しました。最後の裁判の場面です。よく意味がわからないなあと読み進めた小説の最後の数ページ、紙面が発光したのでした。意味はわからないけど、なにかすごいものがここにはあるという光です。その光を思い出しました。

わたしは窮屈さを感じながら暮らしている。
で、このまま窮屈さを抱えてずっと生きていくつもり?
それは嫌だ。
じゃあどうするの?

ノマドランド その1

ノマドランド」
いろんな映画賞を取りましたね。「金融危機により全てを失いノマドになった女性が、生きる希望を求めて放浪の旅を続ける」とYAHOO映画では説明してあります。
わたしは、この主人公の女の人は車上生活をして旅を続けるという形でしか旦那さんの死を悼むことができなかったんだなと思って見ていました。旅に出て初めて旦那さんの死と向き合うことができたのだと。
彼女は旦那さんが亡くなった後もずっと同じ町で暮らし続けたけど、わたしは夫を亡くして一人になったら、村にはいられない。何を見ても夫を思い出してしまって耐えられないから、どこか別の場所に行ってしまうような気がします。車上生活をするかどうかは・・しないかな?車はそんなに好きじゃないし、電車がいいかなあ、のんびり海を眺めながらなどと想像を膨らませていたら気づきました。わたしは電車に乗れないんでした。ホテルも旅館もだぶん無理なんでした。自分が化学物質過敏症なのを忘れていました。車上生活しかないじゃん。ちぇっ。温泉宿巡りなんかしてみたかったけど。
夫は、この女の人はなぜわざわざ車上生活なんかするのか理解できなくて、見ていて息苦しかったそうです。「だって大変じゃーん、あんな不安定な生活」と言ってました。

夫がそのような感想を持つのは、私たちが一時期車上生活をしたことがあるからです。夫はそれに懲りていて、金輪際しないと断言しています。わたしはやらなきゃいけない事情が発生したらやってもいいよ、次はもうちょっと要領よくやれるんじゃないかなと思っています。

体調を崩して東京を離れてからしばらく、親戚の家で暮らしていました。その親戚が他県に異動になって空き家になっていたので、留守番がてら住まわせてもらっていたのです。親戚が戻るまで2年ありましたから、その間体調の回復に努めつつ、次なる仕事と住居を探すつもりでした。
ところがある日、親戚から家に殺虫剤を撒くようにという指示が寄せられました。わたしたちは化学物質過敏症なので、殺虫剤を撒くと住めなくなります、わたしたちが虫退治をするなど他の方法を取ることはできませんかと返信しましたが、断られてしまい、やむなく退去とあいなりました。そのとき無職だったわたしたちは家を借りることができず(不動産屋さんの態度の冷たかったことよ)、車上生活者になりました。
親戚はそのときは化学物質過敏症をよく理解していなかったんじゃないかな。1年後に会ったとき、なんかモゴモゴ言ってました。

殺虫剤を撒くときは立ち合いが必要ということで、遠目に見物していたのですが、消防士さんが放水するみたいに、ホースで殺虫剤を家の外壁に噴きつけている業者さん2人、殺虫剤が2人の上にじゃんじゃん降り注いでいて、大丈夫かなとお2人の健康が心配になりました。いちおう簡易な防護服を着ているとはいえ、顔にはカバーがないので、殺虫剤でビショビショに濡れています。「わたしたちは慣れていますから大丈夫でーす」とおっしゃっていましたが、本当だろうか。
お2人は不動産屋さんに行っても家を貸してもらえるちゃんとした身分の方々で、名の通った大きな会社だったから、それなりのお給料ももらえているはず。無職で体調不良で先行きも不透明の私たちと比べれば社会的成功者なんでしょうけれど、社会的成功のためにあれだけの殺虫剤を浴びなくてはいけないのかと考え込んでしまいました。

 

炭切マニア その2

炭焼きの仕事のゴールは、炭を使ってくださる方が喜んでくださること、満足のいく時間を過ごしてくださること、だと思っています。
火鉢でお使いの方なら、火鉢で使いやすい炭をご提供して、ほんのりとした暖かさとゆったりとした時間を味わっていただくこと。
焼鳥屋さんなど飲食店の方でしたら、仕事がしやすい炭をご提供して、ご来店のお客様に喜んでいただくこと。
炭を焼くのが仕事ではない。料理を作ればコックさんの仕事は完了ーではなく、料理を食べたお客様が笑顔になることがコックさんのゴールであるように。

そのために炭切マニアとしては、張り切るわけです。
炭の出荷先はだいたい決まっているので、お客様のことを思い浮かべながら、あの方はこんな感じ、この方はこんな感じ、と切っていきます。
お客様の使い勝手が大切なので、毎回同じ感じの炭がお届けできるようサイズや質感に気を配ります。原木の状態は毎回違いますから、炭切の段階で調整するのです。

窯出しした炭は毎日の調理に使ってみて、火力や火持ちを確認し、炭切の参考にします。

炭焼きになりたてのころから数年間、わたしのこのやり方は諸先輩方からむちゃくちゃ怒られました。
しなくてもいい仕事をしているからです。
仕事を丁寧にしようがしまいが、卸値は変わりません。できるだけ手間を省いて手早く作業をすませたほうが金銭的には得なのです。当時の卸値はかなり安かったので、省エネ作業は現実的判断でした。
それはとてもよく理解できます。

でもなぜ諸先輩方の言うことを聞かなかったかと言うと、金銭だけを目的にした仕事はやっていてつまらないからです。飽きるのです。
それからお客様と顔の見える商売がしたかったということがあります。お客様のご要望に対して、ご提案ができるようにしておきたい。ご質問に対してもできるだけお答えできる炭焼きでありたい。

 

なんかこういうことって商売していくうえで当たり前のことだと思っていたけれど、村ではそうではなくて異端みたいなので、寂しいなあと。