satoyamahanako’s blog

里山で炭を焼いて暮らしています。

ノマドランド時代の話

東京時代、クリスチャンの友人が数名できたこともあって、聖書を読んでみることにしました。なんたって、世界的大ベストセラーです。ぶっちぎりの1位なんだもん、興味はありました。
旧約聖書の1ページ目から真面目に読み始め・・・えー?旧約聖書から読み始めたの?変わってるー、とクリスチャンの友人には言われました。
え?そういうものなの?と非クリスチャンのわたしは思いました。だって本は1ページ目から読み始めるものでしょう?と答えましたが、新約聖書のほうがクリスチャンじゃない人にとっても読みやすいんじゃないかなという返事でした。
まあ、読み始めたんだからと、そのまま読み続けましたが、車上生活だなんだと環境が大きく変わったことで読み進めることができなくなり、とうとう新約聖書までは辿り着けず、今にいたります。

これから書こうとしていることに関する部分を探して、今、聖書をパラパラと読み直してみたのですが、発見できなかったので、あやふやな記憶に基づき書きます。

イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出してから約束の地に辿り着くまでの40年間、荒野をさまようことになります。
たしかその40年間の間のことなのですが、人々は不平を口にするようになるのです。約束の地に行けると思っていたのにこんな荒野で、満足な家も持てないで云云かんぬん。
それに対して神様が、お前たちは何を言っているのだと叱るわけです。お前たちはすでに全てを手にしているではないか、空がお前たちの天幕で、大地がなんだったかな?家の床だったかな?そんな感じで。
そのくだりを読んだときは当然わたしも人々と同じように、神様、空と屋根は違います。私が欲しいのは屋根です、と思いました。

その後、車上生活をしながら移住先を探していたある日、コーヒータイムにしようと、海を見下ろせる高台に車を停めました。そこは展望台でも何でもない、ただの草原で、周辺には家屋も商店も何もないところです。左を向いても右を向いても広い海、わたしたちのほかには誰もいません。晴れた日で、空には薄い雲がかかり、穏やかな風が吹いていました。波は静かで、日差しが当たったところがキラキラ光っていました。とても静かでした。
ずっと車に乗っていてこわばっていた身体を風にさらしながら伸ばしたあと、椅子を車から取り出して草原に置きました。その椅子に腰かけたとき、神様の言った「お前たちはすでに全てを手にしている。空がお前たちの天幕で・・・」の意味がストンと腑に落ちました。
ほんとだ、わたしは必要なものは全部、何もかも持っているんだ、与えられているんだ、この空と大地がわたしの家なんだ。
なにも恐れることはないんだと思いました。

実際にはそのときわたしたちは住む家も職もなく、かすかな希望を頼りに、あてどなくさまよっていると言ってもいいような状況だったわけです。なぜ突然腑に落ちたのか、よくわかりませんが、とにかく納得しました。わたしはすでに全てを手にしているし、この空と大地がわたしの家なんだと。
大いなる安心感と満ち足りた気持ちでいっぱいになりました。全能感と呼んでもいいような力を体に感じ、大地と天と完全に繋がったように感じました。悩むことなど何一つないのです。そのことも分かりました。
そのときの感動は忘れられません。

で、その後のわたしが引き続き大いなる安心感に包まれて生活しているかというと、そんなことは全くなく、大好きな仕事をし、夫と犬と猫と一緒に居心地の良い家に暮らしているにもかかわらず、時に惑い時に憂い時に不安にかられ、喜怒哀楽すべての感情に振り回されてフラフラと肚も定まらずに生きています。
でも、わたしは必要なものは全部与えられて持っているんだという知識はあるので、時々、お題目のように唱えます。
あのときのような確固とした実感は持てないけれど、知識としては知っているからです。ちょっとしたよすがになっています。